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親鸞聖人の教えとの出遇い|浄土真宗親鸞会

戦後の混乱 絶望の日々 「生きていてよかった」

 私は、大正13年北朝鮮のピョンヤンに生を受けました。小学2年のころ、満州事変が起き、蘆溝橋事件、そして日中戦争へと突入し、太平洋戦争が勃発しました。

 そして、昭和20年8月8日、ソ連軍は日ソ中立条約を破り北朝鮮に侵入してきました。敗戦を迎えた8月15日、平和だった村は、一夜にして恐怖の村と変わりました。

 暴行、略奪と日本人の家は襲われ、身の安全のために、中国の人や土地の人と結婚する人もありました。各地にソ連軍の司令部が置かれ、将校たちの会議の日には、ジープが横付けになり、日本人女性が呼び出されます。

 当時私は20歳でした。ジープが私のところにもやってきました。母は私の前に立ちはだかり、その間に私は窓から飛び出し懸命に逃げました。広い畑に何百とある稲穂の一つに身を隠し、月を眺めて一晩過ごす夜もありました。いっそのこと死ねばソ連軍も驚いて、少しは改めるのではと思い、友達と分け合ったアヒ酸で服毒自殺を図ったのです。でも死ぬことはできず、死ねなかった自分が悲しくて泣き崩れました。

 ある日、父が司令部に呼び出され、私をソ連将校と結婚させると一方的に言われました。父は悩んだあげく、私の身の安全を思うと結婚させたほうがよいと考え、承諾するしかなかったのです。「自分が北朝鮮に来たために……。すまんすまん」と父は泣いておりました。

 その2日後、ソ連将校が迎えに来ました。今生で再び会うことはない、と家族と別れ、結婚生活を送ることになったのです。その後、家族は、夜中に38度線に向かって脱出をした、と聞きました。ただただ無事を念ずるばかりでした。

 それから1年たって私にも、大きな転機が訪れました。夫に連れられ、北部の興南市の港に向かいました。てっきり、モスクワに渡るものと思っておりましたが、日本行きの最後の輸送船・大安丸に私を乗せるためであったのです。

 絶望と悲しみの中、昭和22年3月、大安丸は佐世保に到着。間もなく島根にて、家族と2年ぶりの再会を果たしたのです。私は、いまいましい過去が忘れられず、尼になろうと思ったこともありましたが、女一人生きていくには、何か手に職を持たなければと、叔母をたよって大阪に行き、指圧の仕事を始めました。

 23歳で、その叔母さんの一人息子と結婚したのですが、10年たっても子宝に恵まれず、親戚の男の子を養子として迎えました。ところが、結婚生活17年目にして、突然、夫から、「別の女との子供が生まれるから別れてほしい」と、土下座をして頼まれたのです。どうしてこんな思いをしなければならないのか、寝ている夫を何度殺そうと思ったか分かりません。育てた子も17歳で事実を知り、実家に帰ってしまいました。

 あまりの苦しさに、この時、睡眠薬を1瓶近くのみ、2回目の自殺を図りました。しかし、またも死に切れず、40歳で離婚をした私は、毎日のように奈良の寺々を訪ね歩き、観音菩薩の前で、どれだけ泣いたか分かりません。

 それから10年、何とか、指圧の仕事をしながら生きてきましたが、長い間心配ばかりかけてきた父が亡くなり、島根に、葬儀で帰った時のことです。私を案じていた妹夫婦が、見合いの準備をしておりました。二度とするまいと決めていましたが、それが父の願いであったと聞かされ、三度目の結婚をしたのです。姑から、「どうせ2、3年で、年寄り2人とも死ぬと思って来たのでしょう」と言われたことは、今も忘れることができません。

 1年たって、舅、姑ともに、寝たきりとなり、それから15年間看病の毎日を余儀なくされました。舅は91歳で、次いで夫が亡くなり、翌年に姑が96歳で亡くなりました。もうくたくたになっていました。

 3人の月命日の法要を勤めているうちに、『正信偈』の意味が知りたいと思うようになりました。そこで、毎回のように住職に尋ねましたが、「そんな難しいこと、知らなくてもよい」の答えに失望するばかりでした。

 どこかに教えてくださるお方はないのかと思っていたところに、平成7年、無上仏のご念力により、「釈尊と親鸞聖人」の講演会のチラシが私のもとに届いたのです。初めて「因果の道理」を聞かせていただき驚きました。

 今まで、国を恨み、親を憎み、夫をのろい、恨みつらみの人生でしたが、すべては因果の道理、救われる道はこれしかないと、親鸞会とご縁を結ばせていただきました。

 迷いに迷いさまよってきた人生も、すべては、この真実に遇わせていただくためであったのかと今は感謝せずにおれません。


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